本を探したら、13年前の新聞記事が挟んであった。今の自分からは考えられないほどマメである…。
(※小説『沈黙』のネタバレがあるのでご注意ください。)
人は土着の信仰から自由になれない。
昨年、勢い余ってプロテスタントの母校の先生に、シャーマニズムを交えた博論を書いていると書き送りました。すると、「あれほど教化されていたあなたでも、はらわたの底にあった土着的なものには抗えなかったか。でも次回会うときは笑顔で話しましょう」といった、かなりシビアな内容の手紙が帰ってきてしまいました。暗黒面に墜ちた認定を頂いたような気分になり、以外にもそれだけでかなり疲れましたが、同時にこれは「シャーマニズム」や「アニミズム」と称されるものに向けられた、欧米からの生理的嫌悪感にも似た差別的な響きを実感した瞬間でもありました。
しかし遠藤周作の『沈黙』に描かれた信仰は、このような(そして幻想的な)絶対的正しさを求める「キリスト教」を、主人公の司祭ロドリゴの内面を通して、人間の内側からじわじわと否定しています。物語の最後、長崎の自邸の窓の外に広がるお盆の風景を眺めつつ、母国ポルトガルで行われるよく似た祭りを思う「棄教者」ロドリゴの姿は、日本人のカトリック教徒として葛藤を重ねてきた著者が辿り着いたひとつの思想を、やさしく伝えているのではないでしょうか。それは今まさに求められている新しい確立宗教の形に違いありません。数年前にこれまた母校の別の先生から、クエーカーのなかには既にそのような思想が出てきていると伺いました。さすが宗教や地域の境なく、平和主義を実践してきた人たちです。『沈黙』の終盤、ロドリゴの心中に響くようになるキリストの声も、まさに「内なる光」でした。
これまでなぜ『沈黙』の内容をほとんど覚えていないのか不思議に思っていましたが、これを初めて読んだ十数年前、私自身キリスト教に身を置こうとする日本人の内に生じる問題について僅かな違和感しか覚えていなかったのですから、無理もないのかもしれません。ただそのなかで、時折ユダと重ね合わされるキチジローのことばかり覚えていたのは、いくらか示唆的ではありました。
スコセッシの映画、楽しみです。
【余談、むしろ蛇足】
本作にはスター・ウォーズでクワイ・ガンとカイロ・レンを演じているリーアム・ニーソンとアダム・ドライバーが出演していますが、決して彼らを見に行くのではありませんよ!! 笑汗
とはいえ、「ローグ・ワン」でもアジア人キャラが神秘的なものを盲信するという、いくらかステレオタイプを含んだキャラクターに留まったことを考えると、日本文化の影響を強く受けているスター・ウォーズの俳優が、直接日本を舞台とする映画に関わるのは嬉しいですよね。残念ながら『沈黙』には、なぜ幕府が切支丹をあそこまで迫害するのか述べていませんし(参照:「沈黙―サイレンス― 映画が語らない真実」)、撮影地も台湾ですが…。
はぁそれにしても楽しみ。