生命や霊の力は、線によってのみ表現されるものではない。
草木が風や雪によって歪められるように、人間や動物など、形あるものが不可視な力によって内外から歪められたように表現されることもある。

El_Greco_temple

私に油画への関心を持たせたのはエル・グレコだった。4、5年の間、聖書を読む傍ら、それを視覚化したキリスト教宗教画に熱中し、主にルネサンスからバロックまでの絵画を延々画集や美術館で眺めながら、自分でも一生分と思うくらいの宗教画を描いた。中でも強い関心を覚えたのはルネサンス譲りの明瞭な色彩と、人体による強いうねりを伴うイタリアのマニエリスム、そして光で人間の内面を描くバロックだったが、その両者を併せ持つエル・グレコに強く惹かれた。そしてウェット・オン・ウェットで描かれたそれは―実際アクリルで模写したことがあるのだが―油彩でなければ到底模すことのできない絵画だった。

グレコは極端に引き延ばされ、炎の揺らぎのようにうねる人体を描いた。これが同時代ほかに例を見ないことから、後の人々はグレコを酷い乱視だったとか、神秘主義者だったなどと評した。しかしグレコが人体をうねらせたのは、乱視によってでも、宗教的陶酔によってでもない。グレコの蔵書や、蔵書への書き込みから明らかになったように、極めて論理的に導き出された生命の描写なのである。例えば、グレコの蔵書の中にある同時代のマニエリスムの画家、ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォの『絵画芸術論』には、以下のような一節があるという。
人物が最大の優美さと生命観を持ちうるのは動いていると見えることである。画家たちはこれを人物の魂と呼ぶ。この動きを表現するには、炎のゆらめき以上にふさわしいフォルムはない。 

(『NHK プラド美術館1 異邦人は光を見た エル・グレコ』日本放送出版協会、1992年、95頁。)
またグレコは、当時の理論の枢要となったアルベルティの考えを継承したバルバロの、「完璧な美はそこに何ひとつ欠けていず、何ひとつ付け加えることができない時に達成される」との論に対し、「とすると、人は死んで初めて完璧になり、昼は夜に完璧になる、ということになろう」と皮肉を書き込んでいる。(『エル・グレコ展』東京新聞、1986年、55頁。『エル・グレコ展』NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2012年、196頁。)

これについてフェルナンド・マリーアス氏は以下のように述べている。
グレコは、絶対的な均衡の概念に基づくアルベルティおよびバルバロの「静的な」美を攻撃し、プロティノスにも見られる「動きの中の均衡」という新プラトン主義的な考え方に荷担する。この均衡は、生命を放射する美と同義であり、生命の欠如としてとらえられる絶対的均衡の対極にあった。グレコにとって自然美は、生命なくして、あるいは生命の鼓動ないし精神の表現としての〈動き〉なくしては存在し得ないものであった。
(1986年、同上) 

即ちグレコの引き延ばされた人体と歪みは、彼が美と信じた生命を、精神に伴われる動きによって理知的に描いたものだった。換言すれば、動的な生命の力は、形態を歪めることによって表現されるともいえる。

hokusai_tiger

葛飾北斎が90歳、亡くなる3ヶ月前に描いた〈雪中虎図〉の虎もまた、ゆらぐように歪んでいる。北斎の辞世の句は「ひとだまで、ゆく気散じや、夏の原」であった。自分の魂が体から離れて、夏の原を自由に飛んでいく様子を、「気散じ」という言葉で表しているという(辻惟雄『あそぶ神仏―江戸の宗教美術とアニミズム』ちくま学芸文庫、2015年、209頁)。虎のゆらぎは、体から自由になってゆるゆると気楽な散歩に出るひとだまのようだ。

私はこのように既にある人体や動物などのプロポーションを歪めて描いてきていないわけではないが、まだ動物や人間の動きに即しているところが多く、充分な跳躍に至っていない。本来ある形を変化させるこの歪みは、例えばグレコが乱視を疑われたように、観者に視覚に対する疑念を持たせる。彼らは自らの視覚と、見た者を受け止める精神が揺さぶられるのが恐ろしくて、画家にそのような疑いを掛けたのではなかろうか。この歪みは、今後の作品により変幻自在な生命の息吹を漂わせるために、より試行と実践を繰り返していきたい表現である。