動物の意志は、それ自体生命力であり、その姿態や表情に表れる。これは描き手が動物と対等な立場から感情移入し、動物に変身した自らを画中に固着させるようにして描かれる。そこには動物の動きがつくるうねりがある。

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米沢の草木供養塔

論争になることもなく日本にすんなりと受け入れられ、日本仏教の中心思想となった草木国土悉皆成仏という観念がある。草や木や土地など人間のような心を持たない「無情」のものも、すべて仏に成ることができるという思想だ。辻惟雄氏によると、この考えは日本の美術とも深い関わりがあるという(辻惟雄『あそぶ神仏―江戸の宗教美術とアニミズム』ちくま学芸文庫、9頁)。 ここでいう「仏」の厳密な意味は私には分からないが、私の場合は草木国土悉皆神霊であり、先に述べたように永遠に生死を繰り返しながら循環するものと思いながら制作にあたっている。

従って草木のほか、岩や大気、水などの無生物を描くときも、人間や、人間のように顔を持ち、感情の交流のある動物と同じように描いている。そしてそのときにこれらのものがみせる生命力や霊力の表出を担うのは、空間をうねる歪んだ描線である。それは緩急つけてヘビのように捻り出されるダンサーの身体に近い。即ちやはり描く対象の精神を引き継いだ画家の身体表現を固着した線であるといえる。

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〈奪還〉大下図

岡倉天心は、絵画は自然の描写ではなく、筆によって生命の中の生命であるところの、ひとつの観念を解釈した試論であると論じた。私の制作において、樹木の生命力が見せるこの動物的な歪みは私の中で増幅され、能動的に空間を這い回る執拗な描線となる。この線は大下図上で修正を繰り返しながら探るように軌道を定められ、最終的に墨や木炭による身体性の高いストロークによって黒々と描かれる。この線はその後勢いを損なわぬよう大下図から本画へと転写され、これにもとの筆法を反映した陰影が加えられる。

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妙高山のダケカンバ

樹木は動物よりも受動的かもしれない。しかし幅広く陽光を受け止めるため、しなやかにうねる枝を広げながら上へ上へと伸びていく。その全身は雪や吹きすさぶ風によって歪められ、折れたり伐採されれば大きなこぶを作ったり、残された枝が伸びてかくんと曲がったりする。樹皮の内にあるのは、樹木自身の繁茂する生命力と、その身に掛かる外圧を受け止め、押し返し、分散させる、静かだが強い生命力だ。長い年月を掛けて獲得された樹木の姿は、この内と外の力の干渉の表れであり、動物的だ。私はこれが面白くて、度々歪んだ樹木を描いてきた。樹木を描くということは、樹木の生命を描くのみならず、樹木に掛けられる風雪など、外圧の力をも描くことで、自然そのものを描くということだ。

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宋・元・明時代の中国美術を吸収した室町時代以降、日本美術にうねる諸物が描かれるようになった。東京国立博物館には、雪舟の作と伝わる〈四季花鳥図屏風〉が所蔵されている。その左隻の池のほとりには、一本一本的確に置かれた太い線で描かれた梅が、根で地面を掴み、S字を描きながら斜めに立っている。樹下には2羽の雁が各々身を休め、仲間がそこに加わろうとしている。彩度が抑えられている上に、画面がくすみコントラストが低くなっているためか、この絵の左隻には静けさがある。私は二度目か三度目にこの前へ立ったとき、すっかり画中の静寂に心を開かれて、目頭が熱くなるほどの感情の高まりを感じて驚いたことがある。確かに梅樹の佇まいは私が思い描く人知れぬ意志を持つ樹木像と共鳴していたが、背景の雪の起伏も音のように何かを吸い込んだのだろう。よく常設展に展示されているこの絵は、私の力強くうねる諸物の基礎にあるように思う。

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妙心寺の襖絵だったという狩野山雪の禍々しい老梅はひときわ動物的だ。さながら腹に力を入れて身を起こし、空間奥へするすると移動する大蛇のようである。赤いつぼみとかわいらしい白い花がその身に帯びた細かな光の粒となって、生きとし生けるものを寿いでいる。垂直方向に上下する幹の動きは抽象性をも感じさせるが、しかしそれも森羅万象の生命を人間の生命によって咀嚼し、増幅させることで現出するところが日本美術の面白みであるように思われる。

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曽我簫白が描いた〈林和靖図屏風〉の背景でなにやらのたうっているのもまた梅である。しかし筆の先割れすらも喜んで描かれたであろう大樹は、ばさばさと塗られた薄墨の上にグレーズするように施された金泥と相まって、まるで乱気流のようである。詩人と子供を描いたあと、簫白はこれを体全体を使って、半ばトランス状態で描いたに違いない。簫白は同様の度を超えた大樹を度々描いている。さながら樹木の形に記録された、簫白による生命の舞踊である。