歪められた線が描く生命は、動物や樹木だけではない。水や大気が巡り、地殻変動や火山活動を続けてきた地球や、それを生み出した宇宙の諸物もまた、絶えず他と影響し合って変化する生きもののようなものである。従って人間が霊魂の存在を見出してきた水や風、石などの無生物がみせる光景を描くのもまた、生命力によって歪められたり、うねったりする線だ。そしてそれは物や現象の表現を越えて、それらの根底にある霊力をも表現する。

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梅の大樹を乱気流のように描いた曽我簫白は、実際に気流を描いた。それは同時に霊力の顕れでもある。〈風仙図屏風〉には、抽象的で真っ黒い渦が、唐突に画面上部から侵入している。鉤のような波を細かく描いた簫白にしては癖のない巻き方だが、その影響力は大きく、画面全体に薄墨で描かれた強風が吹きすさんでいる。

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〈群仙図屏風〉には、計画的に濃度を調整された薄墨と金泥によって、龍と仙人が巻き起こした強風が描かれている。龍が纏う渦は、一部グレーズするように描かれている。そのどす黒さは威圧的で、自然の恐ろしい側面を思わせる。龍の仙人と拾得のような人物の衣は、布というよりはエネルギー体のようだ。うねり、歪められた簫白の描線は、もはやものの境界すら打ち壊し、それらの根幹にあるエネルギーを描いたといえる。

身体性を伴うグレーズによる風や霊力の表現は、ほかに狩野一信の〈五百羅漢図(第二十二幅)〉や、河鍋暁斎の〈放屁合戦絵巻〉が印象的だが、風に煽られ湾曲する炎など、絵巻物に古くから用例がある。私は〈かやせ、もどせ〉や〈大口之真神御神影〉、〈石橋〉、〈双猿、虹を架ける〉などで、これを濃色によるグレーズによって描いてきた。

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また〈死者の書(竹生島)〉では、前述したように霊を白を基調とした色のグレーズによって、雲の形に描いている。その描線は推進に伴って強く巻き込んだり、うねったりする。この雲の発想源になったのは平等院鳳凰堂の〈雲中供養菩薩〉や知恩院の〈阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)〉である。来迎図は死者の臨終に際して立てられた極めて実用性の高い宗教画だったためか、その雲の巻き具合からはシーツのしわのように柔らかな印象を受ける。

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これらの雲はただの雲ではなく、聖なる存在を運んでくる霊的な力の具現化といって良いだろう。私が〈死者の書(竹生島)〉で描いた雲もまた、大津皇子をその執念から開放し、生命の循環に引き戻すために現れた霊である。しかし私はこれらの雲が意志に基づいて動いていることを意識し、それを表すのに程よい張りのある描線を探った。中には目のある雲がある。

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歪められた曲線は、もはやそれが何の霊力を描いているのかこだわらない。雲でもなく水流でもない、線そのものがつくる形によって、森羅万象の力や聖性を圧倒的圧力で描き出す。
狩野芳崖の〈仁王捉鬼図〉では、激しくうねり、流れていく歪んだ線の集合体が画面を支配している。雪庇のような岩壁や樹木を描いていた線が、ここでは仁王の力の奔出、勢いや流れを描き、西洋由来の鮮やかな顔料によって丁寧に彩色されている。鬼を握り潰す仁王の左手背後から現れている巻き込みは、握力の表れらしい。爪のような形状がいくつもゆらめき立っている。ほかに大きく流れる力が画面の奥手前のそこここに、大きく小さく流れている。曽我簫白が描いた仙人の衣のように、仁王の両脇に垂れる布も、先端ではもはや布であることをやめて、得体の知れない力の群れに加わるとともに、左上からの流れを受け止め、跳ね上げることで画面全体のリズムを整えている。

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日本橋三越本店にそびえる佐藤玄々と弟子たちによる10年の偉業である〈天女(まごころ)像〉は、うねりと渦によって屹立する霊力の巨大な塊である。
私は幼少期、吊された洋服の向こうにちらちらとこの像を見た。深く彫り込まれた派手な渦巻きの中に埋もれた決して美人とはいえない天女の白い笑い顔が、半ば悪夢のように脳裏について離れなかった。それは欧米化された生活を送る幼児の前に突如現れたアジアであり、日本だった。
佐藤玄々は福島県現相馬市の宮彫り師の家に生まれ、日本とフランスで彫刻を学び、日本の伝統を乗り越えた新しい表現を作った。フランスでの師であるブールデルは、彼に「汝の血を以て、汝が祖国の魂をつくれ」と語ったという。ここでいう血とは、玄々が受け継いだ宮彫りの伝統や、日本で生まれ育つことで形成された精神を指すのだろう。
横からみれば分かるように、この像は全体が仏の立像か巨大な火焔であるかのように湾曲しており、全体を様々な渦とゆらぎに覆われている。ひとつひとつの造型には形状に添って更に細かな筋が彫られ、そこに高いコントラストをつけた五色が、金や銀のハイライトと共に塗られている。宮彫りの技術である。これによってひとつひとつの形は更に強調され、目眩を引き起こすほどまでに高められている。
正面には天女と鳳凰が降り立っているが、自身も渦とうねりを纏ったかれらは、形状と色彩によって周囲と半ば一体化している。

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裏面では主役となった渦が一層ダイナミックに渦巻いている。その奔流に沿って輪を描く小鳥や、小鳥が咥えている花は正面と同じように非常に形式的で、幻想的なユートピアを思わせる。しかしその上部で黄金の炎を放つ一つ目が、目眩を楽しむ観者をギョッとさせる。実際は宝珠かなにかなのかもしれないが、私はいま目の前の楽しみでありながら、いつ恐怖に転じるか分からない何ものかの意志を示す目玉と受け取りたい。

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私の〈天女(まごころ)像〉は、佐藤玄々の線のうねりや渦に基づく霊力の表現を、絵画ならではのぼかしを用いて再解釈してみたものだ。

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全身をうねりや渦で覆った〈天女(まごころ)像〉は、火焔土器を思わせる。この非実用的な形状をした土器は、しかし実際に煮炊きに用いられた。縄文人が多く居住した土地の学校ということで、小学校の頃縄文土器であさり汁を作って飲んだことがある。あさりと水だけでも未だに忘れられないおいしさだった。料理は自然と人間の生命力の直接的な結節点である。人間の活力の源であるそれを、火の神の力を借りて調理するのが土器だ。それは人間が奪う生命が渦巻く神聖な場でもある。火炎土器が儀礼に用いられたにしろ、万が一日常的に用いられていたにしろ、食事が神聖な行為であることには変わりない。

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私の場合、生命や霊の力を表出する線は、記号や図形ではない。これまで多くの人が実に様々な形で波頭を表現してきたように、力を表す線は観察と実感からなる個々人の経験に基づいて描かれるものだ。従って、例え神仏に伴われる雲のようにある程度記号性のあるものでも、或いは全く目に見えない霊の力であっても、それを構成する線を描くということは、まだ露見していないながらも描き手の内で充分に増幅されている動きを、ひとつひとつ線に固定させていく作業であるといえる。的確な場所に的確な弧を描く作業は高い集中力を要するものであり、ものを描き写しているわけでもないのに、最終的に線が落ち着くところがあるというのは妙な気がする。観者はそれを視覚で追うことにより、描き手が手によって現出させたエネルギーを追体験するのである。
それにもとづく妄想に過ぎないが、縄文土器の渦は、制作者が心の内で増幅させた自然の力の印象を、動的に表した呪術的で宗教的な手仕事なのではなかろうか。どこかそこから夫婦や家族で料理を食べ、血や骨肉とすることで、肉体の内側からうねりや渦に満ちた生命の刺青を施すようなイメージが思い浮かぶ。