画師日鑑

お絵かきを生活の糧としている人の思考拠点。

2016年10月

生命や霊の力は、線によってのみ表現されるものではない。
草木が風や雪によって歪められるように、人間や動物など、形あるものが不可視な力によって内外から歪められたように表現されることもある。

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私に油画への関心を持たせたのはエル・グレコだった。4、5年の間、聖書を読む傍ら、それを視覚化したキリスト教宗教画に熱中し、主にルネサンスからバロックまでの絵画を延々画集や美術館で眺めながら、自分でも一生分と思うくらいの宗教画を描いた。中でも強い関心を覚えたのはルネサンス譲りの明瞭な色彩と、人体による強いうねりを伴うイタリアのマニエリスム、そして光で人間の内面を描くバロックだったが、その両者を併せ持つエル・グレコに強く惹かれた。そしてウェット・オン・ウェットで描かれたそれは―実際アクリルで模写したことがあるのだが―油彩でなければ到底模すことのできない絵画だった。

グレコは極端に引き延ばされ、炎の揺らぎのようにうねる人体を描いた。これが同時代ほかに例を見ないことから、後の人々はグレコを酷い乱視だったとか、神秘主義者だったなどと評した。しかしグレコが人体をうねらせたのは、乱視によってでも、宗教的陶酔によってでもない。グレコの蔵書や、蔵書への書き込みから明らかになったように、極めて論理的に導き出された生命の描写なのである。例えば、グレコの蔵書の中にある同時代のマニエリスムの画家、ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォの『絵画芸術論』には、以下のような一節があるという。
人物が最大の優美さと生命観を持ちうるのは動いていると見えることである。画家たちはこれを人物の魂と呼ぶ。この動きを表現するには、炎のゆらめき以上にふさわしいフォルムはない。 

(『NHK プラド美術館1 異邦人は光を見た エル・グレコ』日本放送出版協会、1992年、95頁。)
またグレコは、当時の理論の枢要となったアルベルティの考えを継承したバルバロの、「完璧な美はそこに何ひとつ欠けていず、何ひとつ付け加えることができない時に達成される」との論に対し、「とすると、人は死んで初めて完璧になり、昼は夜に完璧になる、ということになろう」と皮肉を書き込んでいる。(『エル・グレコ展』東京新聞、1986年、55頁。『エル・グレコ展』NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社、2012年、196頁。)

これについてフェルナンド・マリーアス氏は以下のように述べている。
グレコは、絶対的な均衡の概念に基づくアルベルティおよびバルバロの「静的な」美を攻撃し、プロティノスにも見られる「動きの中の均衡」という新プラトン主義的な考え方に荷担する。この均衡は、生命を放射する美と同義であり、生命の欠如としてとらえられる絶対的均衡の対極にあった。グレコにとって自然美は、生命なくして、あるいは生命の鼓動ないし精神の表現としての〈動き〉なくしては存在し得ないものであった。
(1986年、同上) 

即ちグレコの引き延ばされた人体と歪みは、彼が美と信じた生命を、精神に伴われる動きによって理知的に描いたものだった。換言すれば、動的な生命の力は、形態を歪めることによって表現されるともいえる。

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葛飾北斎が90歳、亡くなる3ヶ月前に描いた〈雪中虎図〉の虎もまた、ゆらぐように歪んでいる。北斎の辞世の句は「ひとだまで、ゆく気散じや、夏の原」であった。自分の魂が体から離れて、夏の原を自由に飛んでいく様子を、「気散じ」という言葉で表しているという(辻惟雄『あそぶ神仏―江戸の宗教美術とアニミズム』ちくま学芸文庫、2015年、209頁)。虎のゆらぎは、体から自由になってゆるゆると気楽な散歩に出るひとだまのようだ。

私はこのように既にある人体や動物などのプロポーションを歪めて描いてきていないわけではないが、まだ動物や人間の動きに即しているところが多く、充分な跳躍に至っていない。本来ある形を変化させるこの歪みは、例えばグレコが乱視を疑われたように、観者に視覚に対する疑念を持たせる。彼らは自らの視覚と、見た者を受け止める精神が揺さぶられるのが恐ろしくて、画家にそのような疑いを掛けたのではなかろうか。この歪みは、今後の作品により変幻自在な生命の息吹を漂わせるために、より試行と実践を繰り返していきたい表現である。

歪められた線が描く生命は、動物や樹木だけではない。水や大気が巡り、地殻変動や火山活動を続けてきた地球や、それを生み出した宇宙の諸物もまた、絶えず他と影響し合って変化する生きもののようなものである。従って人間が霊魂の存在を見出してきた水や風、石などの無生物がみせる光景を描くのもまた、生命力によって歪められたり、うねったりする線だ。そしてそれは物や現象の表現を越えて、それらの根底にある霊力をも表現する。

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梅の大樹を乱気流のように描いた曽我簫白は、実際に気流を描いた。それは同時に霊力の顕れでもある。〈風仙図屏風〉には、抽象的で真っ黒い渦が、唐突に画面上部から侵入している。鉤のような波を細かく描いた簫白にしては癖のない巻き方だが、その影響力は大きく、画面全体に薄墨で描かれた強風が吹きすさんでいる。

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〈群仙図屏風〉には、計画的に濃度を調整された薄墨と金泥によって、龍と仙人が巻き起こした強風が描かれている。龍が纏う渦は、一部グレーズするように描かれている。そのどす黒さは威圧的で、自然の恐ろしい側面を思わせる。龍の仙人と拾得のような人物の衣は、布というよりはエネルギー体のようだ。うねり、歪められた簫白の描線は、もはやものの境界すら打ち壊し、それらの根幹にあるエネルギーを描いたといえる。

身体性を伴うグレーズによる風や霊力の表現は、ほかに狩野一信の〈五百羅漢図(第二十二幅)〉や、河鍋暁斎の〈放屁合戦絵巻〉が印象的だが、風に煽られ湾曲する炎など、絵巻物に古くから用例がある。私は〈かやせ、もどせ〉や〈大口之真神御神影〉、〈石橋〉、〈双猿、虹を架ける〉などで、これを濃色によるグレーズによって描いてきた。

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また〈死者の書(竹生島)〉では、前述したように霊を白を基調とした色のグレーズによって、雲の形に描いている。その描線は推進に伴って強く巻き込んだり、うねったりする。この雲の発想源になったのは平等院鳳凰堂の〈雲中供養菩薩〉や知恩院の〈阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)〉である。来迎図は死者の臨終に際して立てられた極めて実用性の高い宗教画だったためか、その雲の巻き具合からはシーツのしわのように柔らかな印象を受ける。

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これらの雲はただの雲ではなく、聖なる存在を運んでくる霊的な力の具現化といって良いだろう。私が〈死者の書(竹生島)〉で描いた雲もまた、大津皇子をその執念から開放し、生命の循環に引き戻すために現れた霊である。しかし私はこれらの雲が意志に基づいて動いていることを意識し、それを表すのに程よい張りのある描線を探った。中には目のある雲がある。

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歪められた曲線は、もはやそれが何の霊力を描いているのかこだわらない。雲でもなく水流でもない、線そのものがつくる形によって、森羅万象の力や聖性を圧倒的圧力で描き出す。
狩野芳崖の〈仁王捉鬼図〉では、激しくうねり、流れていく歪んだ線の集合体が画面を支配している。雪庇のような岩壁や樹木を描いていた線が、ここでは仁王の力の奔出、勢いや流れを描き、西洋由来の鮮やかな顔料によって丁寧に彩色されている。鬼を握り潰す仁王の左手背後から現れている巻き込みは、握力の表れらしい。爪のような形状がいくつもゆらめき立っている。ほかに大きく流れる力が画面の奥手前のそこここに、大きく小さく流れている。曽我簫白が描いた仙人の衣のように、仁王の両脇に垂れる布も、先端ではもはや布であることをやめて、得体の知れない力の群れに加わるとともに、左上からの流れを受け止め、跳ね上げることで画面全体のリズムを整えている。

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日本橋三越本店にそびえる佐藤玄々と弟子たちによる10年の偉業である〈天女(まごころ)像〉は、うねりと渦によって屹立する霊力の巨大な塊である。
私は幼少期、吊された洋服の向こうにちらちらとこの像を見た。深く彫り込まれた派手な渦巻きの中に埋もれた決して美人とはいえない天女の白い笑い顔が、半ば悪夢のように脳裏について離れなかった。それは欧米化された生活を送る幼児の前に突如現れたアジアであり、日本だった。
佐藤玄々は福島県現相馬市の宮彫り師の家に生まれ、日本とフランスで彫刻を学び、日本の伝統を乗り越えた新しい表現を作った。フランスでの師であるブールデルは、彼に「汝の血を以て、汝が祖国の魂をつくれ」と語ったという。ここでいう血とは、玄々が受け継いだ宮彫りの伝統や、日本で生まれ育つことで形成された精神を指すのだろう。
横からみれば分かるように、この像は全体が仏の立像か巨大な火焔であるかのように湾曲しており、全体を様々な渦とゆらぎに覆われている。ひとつひとつの造型には形状に添って更に細かな筋が彫られ、そこに高いコントラストをつけた五色が、金や銀のハイライトと共に塗られている。宮彫りの技術である。これによってひとつひとつの形は更に強調され、目眩を引き起こすほどまでに高められている。
正面には天女と鳳凰が降り立っているが、自身も渦とうねりを纏ったかれらは、形状と色彩によって周囲と半ば一体化している。

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裏面では主役となった渦が一層ダイナミックに渦巻いている。その奔流に沿って輪を描く小鳥や、小鳥が咥えている花は正面と同じように非常に形式的で、幻想的なユートピアを思わせる。しかしその上部で黄金の炎を放つ一つ目が、目眩を楽しむ観者をギョッとさせる。実際は宝珠かなにかなのかもしれないが、私はいま目の前の楽しみでありながら、いつ恐怖に転じるか分からない何ものかの意志を示す目玉と受け取りたい。

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私の〈天女(まごころ)像〉は、佐藤玄々の線のうねりや渦に基づく霊力の表現を、絵画ならではのぼかしを用いて再解釈してみたものだ。

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全身をうねりや渦で覆った〈天女(まごころ)像〉は、火焔土器を思わせる。この非実用的な形状をした土器は、しかし実際に煮炊きに用いられた。縄文人が多く居住した土地の学校ということで、小学校の頃縄文土器であさり汁を作って飲んだことがある。あさりと水だけでも未だに忘れられないおいしさだった。料理は自然と人間の生命力の直接的な結節点である。人間の活力の源であるそれを、火の神の力を借りて調理するのが土器だ。それは人間が奪う生命が渦巻く神聖な場でもある。火炎土器が儀礼に用いられたにしろ、万が一日常的に用いられていたにしろ、食事が神聖な行為であることには変わりない。

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私の場合、生命や霊の力を表出する線は、記号や図形ではない。これまで多くの人が実に様々な形で波頭を表現してきたように、力を表す線は観察と実感からなる個々人の経験に基づいて描かれるものだ。従って、例え神仏に伴われる雲のようにある程度記号性のあるものでも、或いは全く目に見えない霊の力であっても、それを構成する線を描くということは、まだ露見していないながらも描き手の内で充分に増幅されている動きを、ひとつひとつ線に固定させていく作業であるといえる。的確な場所に的確な弧を描く作業は高い集中力を要するものであり、ものを描き写しているわけでもないのに、最終的に線が落ち着くところがあるというのは妙な気がする。観者はそれを視覚で追うことにより、描き手が手によって現出させたエネルギーを追体験するのである。
それにもとづく妄想に過ぎないが、縄文土器の渦は、制作者が心の内で増幅させた自然の力の印象を、動的に表した呪術的で宗教的な手仕事なのではなかろうか。どこかそこから夫婦や家族で料理を食べ、血や骨肉とすることで、肉体の内側からうねりや渦に満ちた生命の刺青を施すようなイメージが思い浮かぶ。


動物の意志は、それ自体生命力であり、その姿態や表情に表れる。これは描き手が動物と対等な立場から感情移入し、動物に変身した自らを画中に固着させるようにして描かれる。そこには動物の動きがつくるうねりがある。

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米沢の草木供養塔

論争になることもなく日本にすんなりと受け入れられ、日本仏教の中心思想となった草木国土悉皆成仏という観念がある。草や木や土地など人間のような心を持たない「無情」のものも、すべて仏に成ることができるという思想だ。辻惟雄氏によると、この考えは日本の美術とも深い関わりがあるという(辻惟雄『あそぶ神仏―江戸の宗教美術とアニミズム』ちくま学芸文庫、9頁)。 ここでいう「仏」の厳密な意味は私には分からないが、私の場合は草木国土悉皆神霊であり、先に述べたように永遠に生死を繰り返しながら循環するものと思いながら制作にあたっている。

従って草木のほか、岩や大気、水などの無生物を描くときも、人間や、人間のように顔を持ち、感情の交流のある動物と同じように描いている。そしてそのときにこれらのものがみせる生命力や霊力の表出を担うのは、空間をうねる歪んだ描線である。それは緩急つけてヘビのように捻り出されるダンサーの身体に近い。即ちやはり描く対象の精神を引き継いだ画家の身体表現を固着した線であるといえる。

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〈奪還〉大下図

岡倉天心は、絵画は自然の描写ではなく、筆によって生命の中の生命であるところの、ひとつの観念を解釈した試論であると論じた。私の制作において、樹木の生命力が見せるこの動物的な歪みは私の中で増幅され、能動的に空間を這い回る執拗な描線となる。この線は大下図上で修正を繰り返しながら探るように軌道を定められ、最終的に墨や木炭による身体性の高いストロークによって黒々と描かれる。この線はその後勢いを損なわぬよう大下図から本画へと転写され、これにもとの筆法を反映した陰影が加えられる。

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妙高山のダケカンバ

樹木は動物よりも受動的かもしれない。しかし幅広く陽光を受け止めるため、しなやかにうねる枝を広げながら上へ上へと伸びていく。その全身は雪や吹きすさぶ風によって歪められ、折れたり伐採されれば大きなこぶを作ったり、残された枝が伸びてかくんと曲がったりする。樹皮の内にあるのは、樹木自身の繁茂する生命力と、その身に掛かる外圧を受け止め、押し返し、分散させる、静かだが強い生命力だ。長い年月を掛けて獲得された樹木の姿は、この内と外の力の干渉の表れであり、動物的だ。私はこれが面白くて、度々歪んだ樹木を描いてきた。樹木を描くということは、樹木の生命を描くのみならず、樹木に掛けられる風雪など、外圧の力をも描くことで、自然そのものを描くということだ。

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宋・元・明時代の中国美術を吸収した室町時代以降、日本美術にうねる諸物が描かれるようになった。東京国立博物館には、雪舟の作と伝わる〈四季花鳥図屏風〉が所蔵されている。その左隻の池のほとりには、一本一本的確に置かれた太い線で描かれた梅が、根で地面を掴み、S字を描きながら斜めに立っている。樹下には2羽の雁が各々身を休め、仲間がそこに加わろうとしている。彩度が抑えられている上に、画面がくすみコントラストが低くなっているためか、この絵の左隻には静けさがある。私は二度目か三度目にこの前へ立ったとき、すっかり画中の静寂に心を開かれて、目頭が熱くなるほどの感情の高まりを感じて驚いたことがある。確かに梅樹の佇まいは私が思い描く人知れぬ意志を持つ樹木像と共鳴していたが、背景の雪の起伏も音のように何かを吸い込んだのだろう。よく常設展に展示されているこの絵は、私の力強くうねる諸物の基礎にあるように思う。

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妙心寺の襖絵だったという狩野山雪の禍々しい老梅はひときわ動物的だ。さながら腹に力を入れて身を起こし、空間奥へするすると移動する大蛇のようである。赤いつぼみとかわいらしい白い花がその身に帯びた細かな光の粒となって、生きとし生けるものを寿いでいる。垂直方向に上下する幹の動きは抽象性をも感じさせるが、しかしそれも森羅万象の生命を人間の生命によって咀嚼し、増幅させることで現出するところが日本美術の面白みであるように思われる。

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曽我簫白が描いた〈林和靖図屏風〉の背景でなにやらのたうっているのもまた梅である。しかし筆の先割れすらも喜んで描かれたであろう大樹は、ばさばさと塗られた薄墨の上にグレーズするように施された金泥と相まって、まるで乱気流のようである。詩人と子供を描いたあと、簫白はこれを体全体を使って、半ばトランス状態で描いたに違いない。簫白は同様の度を超えた大樹を度々描いている。さながら樹木の形に記録された、簫白による生命の舞踊である。 

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〈墨周奇譚〉というシリーズがある。街や集落で撮影した写真を背景に、そこをぶらつく霊魂を描いた一連の試作品群だ。台東区と墨田区に関わる作品を展示するプロジェクトのために制作した。私が都市や人間の生活域を描き始めたのは比較的最近のことだ。

私は千葉県市川市の新興住宅地に生まれ育った。貝塚や古墳のような盛り上がり、法華経寺の大荒行に八幡の藪不知など、関心を抱くものは少なくないが、両親の出身地でもなければ、何百年も継承されてきたものづくりや芸能を皆で受け継ぐこともないこの土地を、私は故郷と思ったことが一度もない。一方で子供心に自分が帰る場所のように考えていたのは、繰り返し触れている吾妻山麓のブナの森である。しかし中学生のころ、この遊歩道が観光資源開発のために、当のブナの根を切り崩して敷設されたものであることを知った。そのころはこれを環境問題と捉えていたが、これはひとつの矛盾である。地元を自分の場として認められない私は、樹木の根を痛めつけて造られた道を歩きながら、「手つかずの森」を心のよろこびの場としていたのだ。この矛盾に気付かせたのは、福島第一原子力発電所の事故だった。原発や原発の仕事は、都市が欲しながらも高い危険性を持つものであり、都市はこれを遠方の産業が衰退し困窮していた地域や農漁村へ交付金と引き替えに植えつけることで支えられてきた。これは沖縄の基地問題にも通じる。その構図と根を切られた道でブナ原生林を楽しむ自分が重なってしまった。それは消費的で、自らの居住地に対してさえも余所者である自分だ。

民間伝承や民間信仰は、近代化と合理化がもたらす不健全な循環に対する現代人の疑問に、新しい視野をもたらして未来を見据えさせる遺産である。しかし、都市から離れており、地に根ざしているが故にそれを継承してこられた地域の共同体は、都市に人を送り込んできたために過疎と高齢化が進んでいるといわれるようになって久しい。ぶらっと訪ねた私には分からなかったが、地方都市出身の知り合いでさえも、人が減っていると言う。このような状況下で、都市を直視せずただ山林や洞窟などを異界として描き続けるのは無責任であり、逃避的だ。そのために、都市を描くようになった。まだ作例は殆どないが、ゆくゆくは都市と繋がってきた町や村も描くつもりだ。

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人間の居住区は人間が快適な生活を求め、必要に応じて加えてきた造作の積み重なりだ。〈墨周奇譚〉では、それらのうち面白く思ったものを撮影し、それに関わったり、ただ通りすがったりする何らかのものを描き加えた。子供の頃通学路を塞ぐ大きくて真っ青なオナガや、宿の階段を一緒に上る猫、生きた馬に騎乗するジョッキー、道具入れにしている馬房にいた天井まで届くほどの巨大で黒い馬など、妙な幻覚を見た。岩手県の山田町では、家々の基礎の上を歩く男性を見、その日の晩宿の人に幽霊を見たかと聞かれた。これらのものが幽霊なのか、私の疲れ目なのか知らない。本当は霊だと思いたいが、そう言ってしまうと相手が二度と私に見えて暮れなくなるような気がするのだ。人間の生活をこれらの存在がどう見ているのか想像し、撮影地に対する理解と直感に基づきながら、続けていきたいと思う。

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〈時検分図(御岳組)〉では、様々な時代の日本列島の動物が御岳組と呼ばれる方法で組む紐が、現代の日本に垂れていっている。手前に見えるのは平成を象徴する東京スカイツリーを中心とした東京の光景で、 その奥に繋がっているのは福島第一原子力発電所を望む福島県浜通の海岸である。

森林や山は私の内面を開き、野性を開放する場所でありながら、同時に絶えず孤独や不安、恐怖を感じさせる場所であり、言うなれば魂を裸にする場所です。そのため幾度も描いてきました。

山林にも様々なものがありますので、私は当分山林の描写に慣れることはないでしょう。しかしだからといって親しみのあるものばかり描いていては、ずっと同じようなことばかり考えて、マンネリに陥りかねません。私にとってマンネリは、退屈というよりも恐怖です。自分が前の絵とさして変わらぬことを繰り返しているのではないかと思うと、不安でたまらなくなります。山林もまたそう思って描き始めたものではありました。そこで半ば強迫的に、森ではない空間を描かなければならない、そしてまた描きたいと思うようになりました。描くという行為は、描く対象に対する知識の有無に関わらず、実体験に基づく相手の性質や魅力を把握しなければできないことです。そのため描いたことのないものを描くとき、狭まっていた自分の視野と思考は客観的に捉えられ、手を動かすことによって押し広げられていきます。またかえって、関心が湧いたことを考えるために、親しみも愛情もないものを描くということも考えられます。私はこれが絵画制作を中心に手と足で物事を考えることを選んだ者と、好きなものを描き続ける趣味的な絵描きとの間に大きな差をつけていると考えています。

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〈石橋〉

森に続いて新たに取り組んだのは、それまでにいくつか見て、次第に関心を覚えてきていた洞窟でした。〈石橋〉は同名の能に主題を取っています。本来、この物語は谷深き秘境の山奥にある、天然の石の橋が舞台です。しかし岩手県久慈市の小袖海岸にあるつりがね洞を受けてこの絵の制作を始めたため、画中では洞窟を舞台としました。

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不二洞の空穴(そらあな)

洞窟と森は、自分よりも遥かに大きなものに囲まれ、安心感と威圧感とを同時に得る空間としてよく似ています。鍾乳洞には洞を形作る地下水が流れていることが多く、豊かな水気も森と共通するかもしれません。ときおり嫌に鬱蒼として薄暗い森があります。針葉樹林が多いように思いますが、しかし洞窟はそれどころではありません。そこは完全な闇が支配する世界です。また、静かに座っていたらもっと何かいるのかも知れませんが、コウモリや岩壁を歩き回る虫くらいしか生物の気配がありません。ときには群馬県上野村の不二洞のように、数万年前に地表から転落し、彷徨った末そのまま餓死したと思われる動物の骨が発見されることさえあります。その点では森と全く対象的といえましょう。

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観光資源化された洞窟で、前人未踏の闇の奥へと歩を進めて行った人の感覚を想像するのは容易ではありません。多くの鍾乳洞は足下がコンクリートで平坦にならされ、電灯が設置されているからです。ときにはじわじわと色を変える派手な照明を施したものもあります。近くに遠くに、複雑な形状を見せる岩壁に映し出される色の移り変わりを見るのは嫌いではありません。むしろ好きなくらいです。しかしそのように人間に支配された鍾乳洞も、本来は水の通り道であり、必ずどこに繋がっているとも知れない漆黒の穴があります。ただ暗いだけの窪みだったら、そこまで恐ろしくも感じないでしょう。それが人間が入っていけそうな道になっており、そこをかよう冷風の気配も手伝って、意識が奥へ奥へと引っ張られるから気味が悪いし、怖いのです。そこから真っ先に想像されるものは、彷徨った末の死です。

福島県田村市の入水鍾乳洞は、そのようなどこへ続くとも知れない穴道に入っていける小さな鍾乳洞です。入水というくらいですから足下には絶えず冷たい水が流れていて、その中を、ときにはパンツまで濡らしながら、ろうそくの灯りを頼りに奥へ奥へと進んでいきます。洞内は狭く、四つん這いになったり、体を岩壁に合わせって捻じ曲げなければ進めないところがいくつもあります。太った人がそこに挟まれようものなら、洞の奥にいる人たちはその人がしぼむまで出てこられなくなる―そのような不安が頭をよぎるほど狭いのです。岩に体を擦りつけ、身をよじりながら暗い穴道を進む様子は、参道を通る赤ん坊を思わせます。天然の胎内めぐりです。

胎内めぐりとは、即ち擬似的に一度死んで、生まれ直すということです。死に装束を纏って山駆けに臨む山伏の修行道場には、天井から縄と扇が吊り下げられており、それぞれ参道と陰門の位置を象徴することで、擬似的な生まれ直しの経過を示しているといいます。カーメン・ブラッカーは、日本において洞窟は明らかに生と死の間の境界であると述べています。古代から、山と洞窟は、ともに生に向かう死霊の世界なのです。(山に生業を持ち、山の生命によって生かされていた山民がそのように思っていたかどうかは疑問ですが…。)

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前述したように〈石橋〉制作の動機となった小袖海岸のつりがね洞は、波に洗われる岩をなんとか渡っていけば歩いて到達できそうなところにある、とがった巨岩の島です。延々続く洞窟ではありませんが、一部が大きな洞になっており、明治29年の大津波で崩れるまではその天井から大きな釣鐘型の岩がぶら下がっていたといいます。夫婦があの世へ行くときはこの地で落ち合い、その鐘を突いてから極楽浄土へ向かうとの伝承があるとのことでした。波を被る岩の連なりは視線を島へと誘い、背後の太平洋の広がりは意識をさらに遠くへと開放します。岩から生える松は気高く、低木は愛らしい。久慈の人にとってのあの世がどこなのかは知りません。漁業によって暮らす人たちと、陸から滅多に離れない私では、海に対する印象も全く異なるでしょう。しかしすぐに波の音で興奮する私にとって、潮風に当たりながら眺めるつりがね洞は、確かに視線の移動によって人の意識を遠方の世界に運ぶ装置のような場として、強く印象に残りました。

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不二洞の経文がびっしりと描き込まれた川原石

群馬県上野村の不二洞は、完全にこの世のあの世として想定されています。この洞窟は800年頃に村人によって発見され、その後多くの人によって探検されたあと、1600年頃に地元の僧によって修行場として世に広められたといいます。1700年代にはこの地に流行した疫病を鎮めるため、その僧の後継者がいくつもの河原石に細かく経文を書き入れて竪穴に納め、自らもそこで入定したといいます。聖なる空間で自ら生け贄になろうとしたのか、魂となってこの空間に宿ることで村を守ろうとしたのか…。

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不二洞の「賽の河原」

1960年代には既に観光地化されていたためか、過剰な整備と観光客による破壊行動から保存状態はあまりよくありません。しかしそれまで禁足地だったというほどの強い宗教性は、現在も洞内各所の名称に遺されています。石筍やちょっとした岩棚などに名付けられた「閻魔の百聞馬場」、「六地蔵」、「賽の河原」、「大日如来」などの名前はこの鍾乳洞をあの世に変貌させ、火の明かりを頼り巡る者たちにこれらの神仏を遭遇させるための仕掛けです。

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洞窟観音

高崎の洞窟観音は、そのような空間を一市民が自ら作り上げてしまった例といえます。洞窟観音は信仰心の篤かった大正・昭和の豪商山田徳三が、30歳頃から80歳で没するまでの半世紀あまり、私財を投じ、自身や夫人も参加して掘り出した、人工の宗教的な洞窟です。400メートルにわたる坑道の途中には、モルタル製の滝や枯山水を備えた壁龕や高さ20メートルを越える大空間が設けられており、36体の観音像が安置されています。訪問者は洞内でその一体一体に遭遇しながら洞窟を進みます。そして山田徳三が没するまで掘り進められた未完の空間の開口部と木製の足場を後に、外界へ戻ります。

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岩木山赤倉ルートの観音さま

観音巡りは岩木山の赤倉ルートや久渡寺山など、津軽の霊場でも見掛けますが、岩木山の観音像は、銘によると1966年に設置されたものです。山の神聖さを木々や岩など、山の全てから感じ取ることを望む私にとって、既にある岩に彫ったわけでもない石仏は、どうしても登山中の感覚や思考を鈍らせるもののように思えてしまいます。ひとり登る身の心細さを和らげてくれますし、今年掛けられたばかりの真新しい前掛けは微笑ましいものですが、山中に人の手による具象的な造型があることに少し戸惑いました。

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不二洞

対して揺れ動く灯りに浮かび上がる複雑な起伏を神仏に見立てる不二洞は、いわばなんでもないところに神聖な存在を見出そうとします。見る者毎に異なる像を映し出すこの方法は瞑想的ともいえますが、私は個々人の原始的感覚を試し、鍛えるような面白みをを感じます。

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洞窟観音

洞窟観音はそうして人間と霊的存在が遭遇する空間を、宗教的な情熱と執念に基づいて、無から人の手によって具現化したものといえます。現代の人間が遭遇するものをほうぼうで受けた印象や、そこから湧いた思考から描きたいと願う私にとって、非常に興味深い空間です。

洞窟やはこのように生活の場とは異なる空間であり、そこに分け入った人間がこの世ならざる存在にまみえる場です。また巨岩は滅多なことでは形を変えない存在として、人間の記憶に記号のように焼き付きます。

洞窟や岩は面白いものですが、まだ描き始めたばかりで充分な思考がなされていません。今後更なる描画と観察、学習によって、より解釈を深めていく必要があります。

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小下図から分かるように、当初私は霊魂のひとつひとつを動物の姿で大量に描くことで、エフェクトのようにほとばしったり、流れを作る集合体として描いていました。エフェクトとは水や煙や電撃など、映像やアニメーションのなかで視覚演出効果として用いられる、不定型な物質や現象のことです。それは生死に関わらず生命力を発揮する霊魂が常に目に見えない存在であり、私にとっては多くの場合、極めて不確かな気配としてしか感知できないからでした。

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犬は嗅覚や聴覚などの特殊能力で人間には知覚できないものをいろいろ示してくれる

しかし私が感じるこの気配は、森や山の場合、どうやら湿度と関係があるようです。例えば裏磐梯の西大巓山麓のブナの原生林は沢が多く、水が豊かです。そのため植生も高木や低木、下草、ツルまで非常に豊かで、森の空気はたっぷり水気を含んでいます。このため自分よりも大きなものに四方八方を囲まれているという感覚のみならず、風通しの良いところでは感じないような密度を感じるようです。ここで突然生ぬるい空気の帯に突っ込んだり、山鳥が飛び出して、その姿を目で追う間もなく谷の方へと消えていくと、既に普段とは異なる気配に包まれている全身の感覚が一挙に覚醒して、まだ視覚では捉えられていないなにものかを検知しようとします。これが幾度嗅ぎ直しても獣のにおいであるときはどうにも生々しさが付随して、事が事であるだけに意識の上でも下でも食われまいと必死になります。

このような経験が根底にあるために、私にとって生命にとって欠かせない水の印象は、常に沢筋の多い多湿な山林とともにあります。

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〈胞衣清水〉は、私が抱いている水と生命の印象に基づいて、多湿な森の中の泉から生命が湧き上がり、再びそこへ還ってくるさまを描いています。即ち生死の境を跨ぎながらこの地球を循環する霊魂を描いた絵です。

この絵を描く契機となったのは、東日本大震災の直前まで幾度か耳目にしていた一連の報道でした。 曰く、北海道をはじめ日本各地の森林が、林業不振や土地所有者の高齢化によって、破格の安値で外国資本に売却されているといいます。その背景には森林が保有する成熟した木材や排出権取引で着目される二酸化炭素を吸収する能力、そして地下水があると考えられるとのことでした(クローズアップ現代 #2932、2010年9月7日放送)。そして日本は土地の所有権が極端に強いため、森林の乱伐や水源の枯渇を食い止める有効な手段がないのだといいます。

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百貫清水

観光地化された手つかずのブナ原生林と林業が営まれている山林は様子が大きく異なりますが、水と深い関わりがあることには変わりありません。ここから私は、何度も訪ねており、大小様々な樹木が大きくうねる西大巓山麓のブナ原生林と、その付近から湧き出している百貫清水を取材地として、生命と、生命が頼る水を擁した森林を描くことにしました。

しかし水は生命を育むだけの存在ではありません。そのことを突きつけたのは東日本大震災です。余震のなかテレビ中継で見たどす黒い大津波は、防潮堤を乗り越えて陸地へ上がると、淡々と町や平地の耕作地を進んでいきました。その中には津波から逃げる人や車が映っていたそうですが、私はそれには気付かず、人間の技術が進んだ現代のことだ、皆すっかり避難したあとだろう、これは復興が大変だ…などと考えていました。しかしその後被害の甚大さが明らかになっていくにつれ、大津波は多くの生活を破壊しただけでなく、大勢の生命を奪ったことが明らかになっていきました。

このとき、〈胞衣清水〉は大下図(絵画の実寸大下図)まで進んでおり、震災後も刻々と変わる状況をニュースで聴きながら作画を進めていました。しかしあまりに地震と津波、そしてこれらによって引き起こされた福島第一原子力発電所の事故による犠牲が人間のみならず家畜や植物に多く、途中で構図を改めないことには完成させられないと思い至り、途中でやめてしまいました。初めの大下図では、泉から水しぶきを上げて飛び出した霊魂が、画面奧の光の中―この世、或いはあの世―へと去っていく構図だったからです。生まれたものがどこかへ行ってしまう構図では、とても耐えられませんでした。何か圧倒的な生命力を示す存在が必要だと感じていました。

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私は子供の頃から自分に尻尾がないことを残念に思っていました。殆どの脊椎動物には尻尾があるのに、人間にはありません。しかし人間も胎児の一時期には尻尾があります。そしてその姿は人間を含む哺乳類に限らず、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、即ち脊椎動物全てが一時見せる姿でもあります。勾玉、特に子持ち勾玉は胎児によく似ていますが、実際に胎児を象ったものとする説もあるそうです。もしそうだとしたら、古代の人々は胎児のこの形に霊力を感じ、呪符や呪具として用いたことになります。結局実際のところはよく分かりませんが、胎児が死と生の境目にあって、その形が様々な動物の肉体となる能力を持った原型であることには変わりありません。

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胎盤。Wikipediaより

哺乳類の場合、羊水の中を泳ぎながら育つ胎児と母体を繋いでいるのは胎盤と臍の緒です。出産の際、これらの器官は子供の後に娩出され、胞衣(えな)や後産と呼ばれます。病院での出産が一般化したこんにち、胞衣は産業廃棄物として処分されますが、かつては子供をあの世からこの世へ運ぶ強い霊力を持ったものとして、特別に扱われていました。そのうち多くみられた習慣として、胞衣を家の敷居の真下、或いは内側や外側に埋める事例があったといいます。胞衣を敷居の内側や外側に埋めて人がそこを通る度に踏むようにしたのは、そうすることで子供がよい子に育つと信じられていたからです。しかし胞衣を子供の分身と捉え、踏んづけて子供の素生を矯めようというのは、あの世からやってきたばかりの子供の力を強く恐れている姿勢が如実に表れているように思え、大変興味をそそります。一方で敷居の下に埋めるのは、胞衣を決して踏むまいとして、その霊力に子供や家族を守ってもらおうという心が窺えます。なんとこの胞衣にまつわる習慣は、縄文時代には既にあったといいます。それほど生物の発生や出産は、原始の昔から神秘的で、力ある現象と捉えられていたことが窺えます。

東日本大震災は、こうして生まれる生命と水が切っても切り離せない存在であることを、地震、津波、そして福島第一原子力発電所事故によって放出された放射性物質による汚染によって示しました。

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朝日新聞3月12日夕刊8面より

震災発生の翌日の夕刊に、地震や津波でインフラが破壊され、水で多くの生命が奪われたにも関わらず、水を求めて給水車に並ぶ人々の写真が掲載されています。撮影地の宮城県大衡村には幸い津波が来ませんでしたが、この写真は一方で生命を奪い、生活を破壊しながら、一方でやはり生存に不可欠である水の極端な両義性を強く意識させました。

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山田湾

震災の二年半後に自転車と電車で東北地方を一周しました。八戸から仙台まで南下してくる途中、田老や山田、陸前高田など、三陸海岸の人々から色々なお話を伺ったり、偶然水揚げされたばかりのサンマを分けてもらうところに立ち会ったりしました。なかには、まさか自分の代に来るとは思っていなかったが、両親や祖父母から過去に被害をもたらし、今後また来るであろう津波について聞かされていたという方も二人ほどいらっしゃいました。子供の頃から海に臨み、季節ごとに海で取れるものを頂いてきた人々にとって、水だけでなく海もまた、古くから恵みと危害の両方をもたらす両義的な存在だったのではないかと思います。

現在も続いている放射能汚染は、長時間、広範囲にわたる拡大と遷移によって、土壌や草木や動物など生命の循環を示してきました。それはやはり汚染によって示された、水や大気の循環と深く関わるものです。震災の年の夏に訪ねたブナの森の空間線量は千葉県の自宅の室内よりも遥かに低かったものの、窪みや谷筋には線量の高いところがありました。四月の終わりに訪ねたときにまだ残っていた雪が溶けると同時に、雪の上に積もっていた放射性物質が低地へと染み込んでいったのかもしれません。〈胞衣清水〉を制作している間も、汚染の状況は刻々と変化していきました。積み上げられた汚染土の袋を突き破る草や、押し倒す台風の大水、変わらず阿武隈高地から原発地下へと流れ込む地下水は、太古から淡々と営まれてきた循環の力の強さを感じさせます。そしてこの当たり前の力を受容できない汚染と、汚染による生活の崩壊、生業の強奪、分断、関連死は、都市部の暮らしと、それに頼ってきた私自身の生活がもたらした結果でもあります。そこから生じる怒りや罪悪感は、現状を乗り越えるための基盤して冷静な観察のもと、忘れず、大切にしなければなりません。

原子力発電所の事故は、極めて間接的とはいえ、私の先生と先輩の関連事故死をも招きました。はじめのうちは夢のなかに死者が生きているときと変わらない姿で現れ、アトリエのソファに腰掛けて自分の死について語っていました。しかし時間が経つと、ぼんやりとひとりでに、二人がどこでどのように何を見、どこへ向かうのか、考えるようになりました。関東平野の新興住宅地に生まれ育った私には、人は死後霊となって山に登るとか、海の彼方に向かうなどといった信仰はありません。それは先生や先輩も同様だったと思います。霊があの世に溜まっていくのも不自然です。

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イオマンテ

前述のように胞衣は、あの世から子供を運んでくる霊力あるものとして、特別な方法で埋められたといいます。しかし幼くして亡くなった子供もまた、大人とは異なり、胞衣と同じように埋葬されたそうです。それは子供があの世から再び体を得てこの世へやってくるよう、再生を願うためだったといいます。この感覚はどこかアイヌのホプニレやイオマンテなどの熊送りの儀礼や、日本の杣人が樹木の再生儀礼として行ったと考えられるタマシイウツシに似ています。これらはいずれも、殺されることで人間の生活の糧となる肉体を与える獣の代表であるクマや、切り倒されることで材木となる幹を与えた樹木の霊魂に感謝し、再び人間のもとを訪れるよう願ってあの世へ送り出す行為です。つまり原始的な感覚において、死は肉体から分離した霊があの世へ帰ること、生はその霊が再び肉体を得てこの世へやってきた瞬間であり、霊は生と死の間を循環する存在です。

結局私にとって霊は、個体、液体、気体と形を変えながら地球を巡る水のように、姿を変えながら生と死の境を循環するものであり、その循環経路は生命にとって必要不可欠である水が存在するところなのだという考えに落ち着きました。しかしだからどうということはありません。

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ただそれ以降、私は生命力の姿である霊を、ひとつひとつの動物としてだけではなく、様々な形で書くようになりました。〈石橋〉では、動物から次第に形を崩して液体のほとばしりのように変化していく霊を描いています。〈死者の書(竹生島)〉には大津皇子の亡霊を包み込んで成仏させようとしている霊的存在を、雲として描いています。今後は更に形を不確かなものにして、いずれ〈松林図〉や朦朧体の作品にみられるような湿度を含んだ大気のように、霊を描いていきたいと考えています。

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現在博士論文を書いている最中です。これまでブログなぞはすらすらと書けていたため、数ヶ月で思うように書けるだろうと踏んでいたのですが、とんだ誤算でした。自分を買いかぶっていたとしか言いようがありません。少し始めては少し前に書いたものを読み返し、繰り返し繰り返し修正するため、いつになっても進まないのはもちろん、文体までどんどん硬くなっていきます。おまけに低反発枕に沈み込んでいく鉄球よろしくどんどん精神の深みにはまり込んでいくので、まあ黙って死を待つ姿勢よりはマシなのですが、精神的に追い込まれて、自己嫌悪の塊になります。もう他の学生が何故博論を書けるのか分からない。とにかく思考が纏まらず、予定していた目次に沿って全く書けない。出てくるものが願ってもない方向に飛び出していく。それで大体12000字ほど書いたところで、これは目次がおかしいのではないかと思い立ち、全てぶちこわしてまたやり直し。その繰り返しです。しまいには自分がおかしいのではないかと思い始める(確実に性には合っていない)。最近はもう全く書き進まなくなり、集中力も散漫なので、こうして日頃から思考を整理することが必要だったなどと言いながら、何年も放置していたブログに手を出して、また時間を浪費している有様です。

これまで単位が足りなくなって卒業が危ぶまれたなどということはただの一度もありません。しかし最後の最後で、学位を取るためにやらなければならないことができない―これはどうしたものか、本当に困り果てています。

その中で、では文章が全く書けないのかと思いきや、このようにすらすら出てくる。従って、現時点で博論が進まない原因と考えられるものは以下の三つくらい。

1.論文の脳内読者がお高くて怖い人に設定されている。
2.硬い文体を使おうとするあまり、思考が文章として出てくるまでの間に摩擦が生じている。
3.過去の実感に基づいて描こうとしているが、五年前ともなるともはや実感と経験を分離できない。
4.Wordの画面がもうだめだ。

1.と2.はこれからこのブログにもう1週間以上停滞している部分を書くことでどうにか解決するような気がします。しかし3.は現在から五年前までの現実の変化まで扱っている余裕までありませんから、五年前から変わっていない自らの感覚に基づいて全てを書いていくしかありませんね。4.は、だったらここに書けば良いのだ。

ちょっとこの記事を書くうちに、頭の整理がついてきました。
これで何故か突然文章が書けなくなる私と論文の間にある見えない壁が取っ払える…はず!(はず!)
ということで、今手こずっているひと見出しのみ、このブログに書いてみようと思います。
もうこれで上手くいかないと、本当に辛いぞ…。

〈つづく…〉 

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旧ブログから引っ越して新たなブログを立ち上げたにも関わらず、遂に更新をしなくなって三年くらい経ちました。このようなことになった理由のひとつにSNSがあります。

J-WAVEに触発されてTwitterに手を出した2010年秋頃は、これをやっても長年続けてきたブログは絶対にやめないと、肝に銘じていました。それにも関わらず、一度始めると再現なく手を入れ続ける私にとって文字数や画像数が極端に制限されたTwitterは大変気楽で、結局まんまと自流に流されていってしまったのでした。

一方Facebookは、ブログのように長文も大量の画像も受け付けてくれます。なんといっても「いいね!」が来て、誰が関心を示してくれたのかひと目で分かります。しかしプログラムが重いのか、私が使っているPCのスペックが不十分なのか分かりませんが、よくブラウザごと強制終了します。おまけに書いているとこんなものが出てきたりします。

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肌色の割合が高い画像を大量に投稿しているわけでもないし、排他的な文句を書き立てているわけでもありません。ただ下北半島と津軽半島の旅行記を書いているだけなのに、やたらこれが出る!そして記事の投稿はできません。わけがわからん!
おまけに私はFacebookの記事を非FB利用者からも閲覧できるように設定したつもりでいました。ところがFBアカウントを持たない母が、この長文旅行記に限って閲覧できないと言います。早速確認してみると、確かに見事に旅行記だけがすっぽりと、私のプロフィールページから抜け落ちておりました。だめじゃん。

所詮Facebookはブログの代替などにはなり得ず、私はザッカーバーグが設けた枠の中で、ただただ21世紀を生きた一人間の情報をせっせと絞り出しているに過ぎないのだ…と考え始めたら、なんだか虚しくなってきました。

本ブログは十代中期にお絵かき掲示板をカスタマイズして作った絵日記に始まりました。その後堀江社長逮捕直後になぜか敢えてライブドアブログへ移行し、途中で私の着ぐるみ制作などの趣味が暴走したために、それらの記事を整理するのが億劫になって、改めて立て直したものです。

ブログの良いところは、ウェブサイトほど手間が掛からない割に、開いたページ全てを自分で管理できることでしょう。SNSのように他の人の投稿と並ぶこともないため、自分の考えてきたものの上に、落ち着いて新しく自分の思考を積み重ねることができます。これは日記帳でも同じことがいえますが、日記帳は人に見せるつもりがないぶん、どうも散漫として、ここ数年は始めた頃ほどまとまりがなくなってしまいました。思えばそれもブログをやめ、結局人からつつかれ易いSNSへ移行したころと関係がある気がします。私の場合静かなブログと日記帳は表裏一体で機能していたようです。裏でじっくり眺めながら熟成させたいと思うアイディアが手元になければ、秘密基地を整備しようとも思いませんものね。

因みに私がここ七年間使っている日記帳は文庫判のこれ。
もう一回り大きいものを見つけたので、そちらに移行しようか考え中ですが、
本棚が気持ち悪くなるので多分またこれを買うかな…。

これらの反省は博士論文に取りかかって得られたものでした。
ということで、ものを書き、日々を意識的に過ごすために、やはり再びブログを始めることにします。

しかしやはりせっかく書いた記事をどなたが読んでくれたかはっきりと分かるというのは、大変魅力的です。大学入学以来ずっとご指導くださっていた先生が私のFBの長ったらしい旅行記をお読みくださり、それをもとに「論文だからと強ばって、文体が硬くなってるんじゃない?」とご指導くださったときは、本当にありがたいばかりでした。なんだかんだいってSNSは交流のためには必要不可欠で、長いブランクの間でも近況報告を小出しにしておくのには大変便利ですし、これから会う人にとっての具体的な名刺にもなります。

従って取りあえず、ブログ、日記帳、SNSの立場を以下のように設定して再開します。

SNS=ブログ記事のうち、幅広い人に読んでもらいたいものを投稿。
ブログ= このページへわざわざやってくるような人に読まれたいものを投稿。
日記帳=ブログの裏で熟成させたい考えごとや、ブログの元になるような日常の出来事をこれまで通り記録。 

さてSNSとブログ双方を意識的に使うのは初めてのことになりますので、どうなるかねぇ。
ひとまず、やってみます。 



それにしても暫くいじらないうちに、ライブドアブログ、機能増えたなぁ。 
「拍手」がなくなって、Twitterボタンといいね!ボタンに取って変わっとる。
書き手に戻って改めて感じる、SNS時代のブログへの変化。 

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